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てすかとりぽか
その日のアレとかソレとか。
『告白』 8mile先の人生
映画を観たので、積んであった小説のほうをようやく読めました。

告白

湊かなえによる小説。いわずもがな映画『告白』の原作にあたります。ストーリーは同じですが、原作小説では全6章に分けて、それぞれ異なる登場人物が順に独白する物語。映画版も複数の登場人物による独白なのに変わりはないのですが、その語る順番が不同で所々ミックスされてるという語り口の違いがあります。

つまり謎の解き明かされていく順番が違うのですが、個人的には映画版の方が好きです。

あとは、映像化するにあたって、“リアルな中学生像”を追求しようとする姿勢が垣間見えます。正直、小説版は淡々と主観的な告白が続くのみで、とりわけ周囲の人間のリアクションというものは読み手の想像に任せられているのですけど。映画版の方は“露骨なまでに中学生な周囲の反応”が直接描かれているのです。

特に冒頭、森口先生の独白シーン。教室内の喧騒と静寂の緩急が中防らしさを徹底的に表してます。

ちなみに、ロケ地となった旧芳賀高校は自分の通っていた高校の近くで。良い意味でも悪い意味でも、いかにも地方の公立学校って感じがこれまた好いんですね。これが都心部の学校だったり、私立高校が舞台だったとしたら、ここまで陰湿で閉塞感に溢れてどーしよーもない感じの中学校の演出はできなかったと思います。

その自分の母校も地元では進学校で通ってますが、色々とどーしようもない高校でした。

どーしようもない田舎で、ここから抜け出すには勉強していい大学に行くしかない。そんな想いの子たちばかり集まってる田舎の進学校。親からも教師からも「いい大学に入ればいい人生が待っている」と吹き込まれ、遊ぶ時間も睡眠時間も打ち捨てて死にもの狂いで勉強する。“8mile先の人生の成功を夢見ている。”的な。

だからこそ、いい大学には行ける。けど、その内の多くの人生はそこで終了。

いい大学に入ることが人生至上の目標であった彼らにとって、大学以降の人生は余生でしかないのですから。さらなる目標も楽しみも見いだせず、また折からの就職氷河期で就職すらままならない。これでは話が違う。いい大学に入ればいい人生が待っているのではなかったのか?死にもの狂いの努力は何の意味があったのか?

本作の少年Aに少年B同様に、追い詰められる素養をもつ子は非常に多かったと感じています。

幸いにも(?)彼らのように殺人に奔るようなことはなかったけれど、卒業生の多くが大学進学後、またはその後の人生において、自ら命を絶っているという話は頻繁に聞こえてきます。だから、中学の同級生が自殺したと聞いた時には驚いたけど、高校のソレはもう慣れっこで驚くこともなくなりました。

勉強しないでゲームばっかやってた自分でもちゃんと生きてけてるのに。皮肉な話です。

話が逸れ過ぎて自分語りに入っていました。中二くさくていけません。でも、こうした田舎の公立学校の閉塞感みたいなものを描いている作品はなかったので新鮮でした。原作小説には描かれてはいない要素であるため、映画版だけの脚色と言えるのでしょうけど、こうした脚色が物語をより引き立ているのは間違いないです。

脚色といえば、映画版の方が“森口先生の凄さ”に関するソレが秀逸ですね。

例えば、原作では特に誰の意図もなく自然とそういう展開になったという話があったとして、映画版では“森口先生が意図してそういうふうになるように誘導した”という描かれ方をしている箇所があります。あれもこれもすべて森口先生の掌の上でのことだったのですね…。たか子、おそろしい子…!!というわけですね。

とりあえず、原作から読んでも面白いのは確かですが、個人的には映画版から観ることをお勧めしたいです。

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『非実在青少年読本』 規制賛成
今日は朝からTwitterのTLが『iPhone4』の件でもちきり。

会社の人に「iPhone4でますね~」と気軽に話しかけてみたところ、「ハァ?あんなん買う馬鹿いんの?Flash見れないし、Flashも見れないんだよ?ついでにFlashも見れない。」と半ギレされました。そうか、世の中にはiPhone嫌いな人もいるのを忘れていました。社会人として政治と宗教と野球とTwitterとiPhoneの話はタブーなのです。

また、TwitterのTL上で主流な声を、世間一般の声と錯覚してはいけないんだとも認識しました。

Twitter、2chなどのネットコミュニティ上で主流を占める声や思想は、必ずしも世間一般的な声や思想と同期しているとは限りません。しかし、それらネットコミュニティをメインの情報収集源とする者の中には、「ネット上の声こそ世界中の人間の総意だ!」と捉えてしてしまう人は少なくはないのですね。

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非実在青少年読本

COMIC リュウ編集部編、徳間書店刊行。

東京都の青少年育成条例の改正にあたり、実在の人間への人権問題である児童ポルノ規制の範囲を広げ、マンガ・アニメ・映画・小説・ゲーム等における未成年のキャラクターを「非実在青少年」と名づけ、作中での表現を規制しようとする法案に対して“みんなで考えてみた”という趣旨のご本です。

結論から言うと、この本を読んで初めて“規制賛成派に回りたくなった”んです。

それはあくまで衝動的な感情であり、また“賛成派を公言することで周囲からバッシングを受ける恐怖”も強いことから、結果的には今でも“しかるべき線引きを業界団体が自主的に行うことを前提とした上でこの法案には反対”というスタンスは変わりません。では、どうして一時的にでも賛成派に回りたくなったのでしょう。

アンケート100人もやって、賛成が一人もいねーとかどーいうことだよ!?

“みんなで考えてみた”っていうのは、予めこの法案に反対するであろう対象に限った意見ばかりを集めるっていうことなんでしょうか。漫画・アニメ・ゲーム・ラノベ・評論に関わる業界著名人ばかりに聞いてみたら、結果的にそうなったって話ならとんだ出来レースです。法案成立時に実害のある業界の人間ばかりなんですから。

“自分の利益を守る話になっているから、首を切られる官僚が「俺たちの組織を守れ」とかいってるのとあまり変わらなく見える」”というのは、本書の中で自分の考えと最も似ていると感じた東浩紀さんの論説の一部の引用ですが、当に自身がずっと感じてきた、反対派の人たちの“説得力のなさ”の由縁なんですよね。

また、本書は規制賛成派の声を100%締め出し、情報のミスリードを狙っていると感じました。

本書において、規制賛成派の思惑は全て、反対派の口から出た言葉でのみ語られています。「青少年の健全育成に名を借りた表現狩り」、「外圧に屈した形での規制強化」、陰謀論も真っ青なトンデモ論説です。そう思われたくないのであれば、最初から規制賛成派の人を連れてきて、好きに書かせた上で反論すればよかったのに。

少なくとも、自身は本書に“賛成派の声”が掲載されていると期待していたんですね。

こんなミスリードを目的とした、一方通行な自己防衛話の羅列ではなく、“いかにして子供を害悪から守るべきか?”と“そのために必要な表現規制とは何か?”というしかるべき目的に沿って、賛成派と反対派が前向きに議論するような内容を期待していました。それだけに、また規制反対派の汚いやり口を見てしまった感。

規制に賛成しているという人がいれば口汚い言葉で罵り、また態度を保留している表現者がいれば“表現者失格”と罵る。規制に賛成する論説を見ようものなら、その論説内容とは無関係な著者の国籍・人種・性別・職業・その他可能な限りの手段を持って糾弾する。ネット上の“規制賛成狩り”を散々見てきたうえで極めつけの本書。

だから、一瞬“規制賛成派に回りたくなった”ということです。

もういいかげんうんざり。Twitterでもどこでも「規制に反対するのは当たり前!表現者の義務!」みたいな声や、実況と称して規制賛成派の論説に「根拠がねえ!」とか「黙れ情弱が!」みたいな野次が飛び交い、あたかもそれが「世界中の人間の総意だ!」とばかりに大声を上げる奴らを見てほんとうんざりした。

「そんな奴らを生み出した諸悪の根源である“非実在青少年”を規制に追い込んでやろう!」

と、一瞬思ったものの、結局法案の内容がお粗末すぎるのでどうにもならないし。そんな声をあげたら、反対派の奴らにどんな酷い目に遭わされるかわかったもんじゃないと思い、素直に「規制反対です^^」って顔をしてることにしました。ていうか、この件に関しては何も話さないのが一番だなーと今更気づきました。

ほんと、どっちが言論統制なんだか…。

『挑発するセクシュアリティ』 エロくない
高熱が38度ぐらいの高さなので熱い。

挑発するセクシュアリティ

大学の恩師(といっても授業とっただけ)でもある関修先生が自ら編集され、その一章をも記されているご本。ゲイやセクハラ、同性婚、性風俗にコスプレといった、「性」に関するキャッチーな事柄に対し、法学・社会学的に極めて真面目に、しかしながら挑発的な視座から見つめた論文ばかりを集めて掲載しておられます。

「性的な」っていうわりには全然エロい本ではないです。勘違いしないでね。(書帯を噛みしめながら。)

そもそも、関先生の授業とご本には苦い思い出がありまして。夏休みの宿題として、先生がゲイカルチャーに関して記されたご本を読んで感想文を書くというお題があり。実家でそのご本を読んで感想文を書いた後、その本だけを置いてきてしまったんですけど。後からその本を読んだ母親があわてて電話をかけてきまして。

「いや、違うから。違うから。安心してください母上…。」と何故か電話口でいろいろ否定するハメに。

違うけど。それも違いますよ母上。そういう性的なマイノリティの方々に対して奇異の目を向けるというのは違うと思いますよ?あ、いやだから違うって…とそういうやり取りがその後数年つづきましたが、いまや世間的にもゲイカルチャーが容認されてきたせいか、うちの母親もだいぶ寛容に…いや、だから自分は違っ。

そんなわけで、今作の中で一番目をひいた論稿「性とコスプレ・コミュニケーション」について。

大学のサークルの先輩でもある八島心平氏によって記された本稿は、「コスプレ」という極めて現近代的な自己表現手法とその性質を詳らかにすることを通じて、「性」というフィールドを捉えるという視座が何より興味深いところです。何より、本稿によって語られる氏の言論、とりわけ下記について共感を覚えたのです。

“コスプレとは、自ら着替え続けることで、常に新しいコミュニケーションを夢想し、渇望する行為である。”

「コスプレ」の目的とは、単なる服飾嗜好や性転換願望に機縁するものではなく、キャラクターまたはそれが登場するアニメやゲーム作品に対する、自身の尋常為らざる嗜好を外部にアピールすることである。同時に、その自身と同レベルの嗜好を持つ他者とのコミュニケーションを獲得するための手段でもある。

わかります。自分も10年くらい前にコスプレしたことあるんでわかります。(カミングアウト。)

また、彼らは「対象への嗜好」という根本的な目的および手段を強調するが故に、社会におけるコミュニケーションの媒介として、最も基本的な要素である「性差」を脱ぎ捨てている。厳密には、生物学的な性である「セクシュアリティ」を殊更に強調した衣服を纏うことで、社会的性である「ジェンダー」を放棄している。

生物として、社会としての「性差」を脱ぎ捨てて初めて、「嗜好」だけで他者とつながることができる。

…という話ではないかもですが。自身はそう理解しました。「男女の友情は成立するか?」という命題が存在するのは、「性差が友情の障壁となる」という解が予め用意されているからですし。逆説的に、性差が曖昧な世界においては、純粋に趣味嗜好だけがコミュニケーションの媒介となり得るのではないでしょうか。

そういえば、「ネカマ」って言葉を最近聞かなくなりましたよね。

インターネット以前のパソコン通信の時代から、相手の姿が見えないというネットワーク社会の匿名性を利用して「性を偽る」ことを示す、どちらかというと「蔑称」ではありますが。そもそも、近年では「性を偽る」こと自体があまり問題視されなくなり、ソーシャルコミュニティ上では「あたりまえのこと」にもなってしまっています。

「mixi」で逆の性を記述することはよくありますし、「Twitter」に至っては性を問われることすらないです。

そうした人気ソーシャルコミュニティの発案者が、その「性差を無くすことによる効果」を狙ってやってることなのかどうかは正直わかりません。何故なら、逆に「性差を際立たせること」で集客を目論む、いわゆる「出会い系コミュニティ」も益々もって隆盛を極めておりますし。例のTwitterドラマだって出会い系をアッピルしてますし。

ただ、そのドラマを批判する声は、間違いなく「性差の希薄な世界を望む声」に他ならないと感じます。

少なくとも、現状の「Twitter」に関しては、その「趣味嗜好だけでつながれる世界」が実現されていると自身でも感じています。しかし、既出のネットワークコミュニティの全てがそうだったように、いずれは「生物的な性、または社会的な性を主目的にする人たち」によって蹂躙されていくのは時間の問題だとも思っています。

サービスの目的がユートピアの創生ではなく「ビジネス」である以上、それは必然と言わざるを得ません。

しかし、ビジネスやお金儲けという意図に関わらず、「性を目的にする者によるユートピアの蹂躙」が行われ、問題となることもあります。「出会い目的でコスプレや同人をやる奴」が問題視されるのは今に始まったことではないですが、つい最近の“pixivの出会い系サイト化”なんてのは、まさに「蹂躙」という言葉意外にありません。

“コスプレとは、現代における「ジェンダー・セクシュアリティ」と「コミュニケーション行為」
 を止揚させることができなかった者たちが集う、唯一の「アジール(避難所)なのだ。”

と本稿は締められているように、コスプレにしろTwitterにしろpixivにしろ、社会的な性を捨ててまで築き上げたネバーランドは、所詮は避難所に過ぎません。いつなんどき社会悪に晒されるとも限りません。そして、その力に抗うために、無策であるべきではないと。ピーター・パンは自覚しておく必要はあるのでしょうね。



…ん。なんだか書いてあることと全然違う感想に。先輩ごめんなさいごめんなさいごめんなさ…。

『邪悪なものの鎮め方』 超能力は実在する
光が丘公園でお花見してきました。

成増に住んでた頃にたまに行ったことがありましたが、花見の時期なのでもう光景が一変。人、人、人でごった変えしておりました。ここまで人口密度が高いイベントに参加したのはコミケ以来な気がします。あまりに人が多くてドミノピザの人も場所がわからず、入口まで客に取りにこさせていました。でも、楽しかったでした。

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邪悪なものの鎮め方

内田樹著。"「邪悪なもの」と遭遇したとき、人間はどうふるまうべきか?どうしていいかわからないけれど、何かしないとたいへんなことになる極限的な状況で、適切に対処できる知見とはどのようなものか?この喫緊の課題に、ウチダ先生がきっぱりお答えいたします。"という序論を読んで興味をもったご本。

前半1/3が序論と無関係な書評だけで水増ししてあり、この時点で既に充分「邪悪なもの」の具体例。

よくよく考えてみると、『現代霊性論』で持てた共感のほとんどは、共著者である釈徹宗さんという浄土真宗の先生のお話で、このウチダ先生のお話ではなかったんですよね。正直、自分的にはこのウチダ先生のおっしゃっていることにことごとく違和感を感じます。そもそも、論というには根拠が乏しすぎて、所感にしか見えないです。

その根拠が乏しい所感で、特定の人を犯罪者扱いしたり、批判するのがスタンスなので尚更厭な感じ。

そういう社会に対して毒を吐くこと自体は悪いこととは思わない(お前が言うなって話だし)のだけれど、その根拠を明確に示さない、「なんとなく嫌いだ」レベルの話、要するに個人ブログレベルの話をわざわざ著名な先生が大層なタイトルを掲げてご本にするようなことはないんじゃないのかと感じてしまうわけです。

でも、そういう個人ブログレベルの所感の方が、今の若者受けはよくて売れるんだろうなーとは思います。

実際、ウチダ先生の書く文章は面白いです。村上春樹『1Q84』の物語構造、コピーキャット型犯罪が内包する恐るべき罠、ミラーニューロンと幽体離脱、被害者の呪い、霊的体験とのつきあい方から、草食系男子の問題まで、噛み砕いて誰にでもわかりやすく説明するのが非常に巧い。そして、アプローチの仕方も独特です。

例えば、現代における客観的判断の根拠となる「数値主義」に対する批判について。

"現代では、判断の当否について常に「数値」が求められ、数値をもって客観的に示すことができない「知」は知として認識されない。この数値は科学技術とそのつどの限界によって規定されてしまう。"という命題に対しても、ご自身の豊富な読書体験を通じて、次のような興味深いアプローチをされておられます。

"『生物と無生物の間』で読んだけど、その昔イワノフスキーという人は、顕微鏡で見えないウイルスの存在を証明した。それは見えないものの存在自体を証明したのではなく、「見えないものが存在しないと辻褄が合わない」ということを証明したのだ。だから、現在の「数値主義」という病態は「科学的に正しい態度ではない」。"と。

『生物と無生物の間』なら自分も読みましたが、"イワノフスキーはちゃんとした実験結果(タバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないこと)から、「数値的にも」ウィルスの存在を示している"筈なので、上記の批判の根拠は的外れだってことは置いておくとして、説得力はある話ですよね。

ただ、問題はその後につづく先生のお話。"だから『超能力』や『霊能力』は現に存在する!"と。

"「そういう能力が存在する」ということを前提にしないと、「話のつじつまがわない」から「存在する」"とウチダ先生はおっしゃいます。しかし、"数値的に示すことができないが、その根拠はある。しかし、列挙するには多すぎる"と、重要な部分は逃げるんですね。逃走経路確保としての、事前に「数値主義の批判」だったわけですね。

大槻ケンヂが、昔こういう話をうまいこと定義づけてましたね。「UFOはプロレスだ!」って。

UFOもプロレスも、嘘っぱちだ八百長だとは言われてはいるけれども、その実在やガチを証明する事例は数限りなく存在する。そして、"本気で信じている人が少なからずいる。"ということ。彼らは"実在しないと辻褄が合わないから実在する。"という語り口を多用すること。だから、"UFOもプロレスも同じなんだ!"って。

ウチダ先生の場合、おそらく本気で言ってる方なんですよね。
京極夏彦みたいに「超能力ですか?もちろん信じてますよ(笑)」な感じではない。
バックダッシュで逃げながら、超能力を認めない社会やメディアに対して、全力で石を投げつけてるし。

個人的には「超能力も霊能力もあって欲しいけど、根拠なく存在を認めはしない。」というスタンスなので、是非ともウチダ先生には、逃げずに真正面からその「列挙するには多すぎる根拠」を武器に社会やメディアと闘って欲しいんですけどね。たぶん、アッチ側の世界にいる著名人の中では最強の論客に成りえると思っていますので。

『現代霊性論』 葬式をやる理由
現代霊性論

内田樹さんという哲学者の人と、釈徹宗さんという浄土真宗の先生の方が死生観から、霊、タブー、霊能者、新宗教、カルト、スピリチュアルブームとか諸々について対談した内容をまとめたご本。なんというか、説教臭くもなく、胡散臭くもなく、極めて良識的で現実的な視点からユルーい感じなのが共感しやすいのです。

中でも、すごくわかりやすい説明だなーと思ったのが「なぜ、葬式をやるのか?」という話。

最近、『葬式は、要らない』という本がベストセラーになってたんでチラ見してみたところ、別に「葬式やんなくていい」みたいなことは全然書いて無くて、単に金のかけ方の問題提起だけがされてたんで、なんだこの詐欺タイトルと思ったりしていて。逆に、なんでやらなきゃいけないのかって部分を詳しく書いた本も他になかったんですよね。

「オレは霊なんて信じないし、仏教も信奉してないから、親が死んでも葬式なんかやらん!」

みたいに、思ってる人は絶対相当数いると思うんですけど。でも、結局やらない人はほとんどいない。普段「葬式仏教がッ!滅べツ!」とか言ってるような人でも、ちゃんとお葬式はやってしまう。法律上でやらなきゃ罰せられるとかそういうわけでもないのに。なんでそこまで不可避なイベントになってしまっているのでしょうか。

なんでかって、やらないと現実的に社会から抹殺されかねないほどの圧力を受けるからなんだそうです。

「お前は親が死んでも墓にも納めないのかッ!」と周囲からフルボッコにされるから。要するに、極めて現実的な利害関係に基づいた理由で回避できないのです。霊とか宗教が科学的見地からでは全く現実味がないというにも関わらず、現実主義的にそれを回避できないというのは本当に興味深い話だと思います。

そもそも、葬送儀礼というのは、霊や宗教の概念に先んじてあるというのも理由なんでしょうけどね。

いやホラだって、死体そのへんにうっちゃっておいたら、蠅がたかって伝染病の媒介にもなりかねないし。それ以前に臭いわグロいわ。埋めるなり焼くなりしちゃった方が現実的なわけです。死んだらどうなるとかいう霊とか宗教のお話はその後に考えられたネタなわけですし。本来信仰とは関係ない儀式なんですね。

あと、今はちゃんと許可とって葬らないと死体遺棄になるんで、葬らないという選択肢はないんですけど。

まぁ、他にも葬式をやることによる現実的なメリットというのも少なからずあると個人的には思っています。これは自分の経験から得た感想ですが、親族が死ぬとその準備やらお金やら死ぬほど忙しくなるんで、正直悲しみに暮れてる暇なんかない。忙殺されてるうちに葬式は終わって、気が付いたら悲しみも弱まってたり。

だから、一番ダメージが大きい筈の配偶者や子供が、一番忙しい喪主を任されるんだなーと。

逆に、アメリカとかだと喪主というシステムはなく、葬儀は業者が全部取り仕切ってやっちゃうそうなんで、家族は式の間もちゃんと悲しむ余裕があるんだとか。でも、その分悲しみを何年も引きずって、毎日喪服着て泣いて過ごすような人も多いんだそうです。現実主義的に考えるなら、日本のシステムのがいいかなと思います。

ちなみに葬式以外でも、「式」とつくものでは、一体なんでそんなことやるんだろう?というものは多いです。

でも、よくよく調べたり考えたりしてみると、そのほとんどに必ず現実的な意味や、合理性に基づいた理由があったりします。例えば、結婚式だって、なんであんなしちめんどくせーやりたくねーと正直思ってましたが、やらないで親戚全部に挨拶周りするとか考えてしまうと、一番めんどくさくない手段なんだなーと。

「式」っていうのは「式を打つこと」、つまり「呪いをかける」的な話をなんかで読みましたけど。

昔の人がいろいろ考えて、現実的かつ合理的に一番うまく行く方法を考えた結果生まれたTODOが、「式」なんですね。そのテキストに秘められた意図なんか別に知らなくたって、そのとおりやればちゃんと機能するというのは、まさに「呪い」の類だとも思います。宗教なんかは、その式を伝播する役割を担ってるだけなんだなーと。

いや、それでも葬式なんかやるもんかッ!!ってチャレンジドな人が出てきてもいいとは思いますけどね。

特に宗教という概念を頭ごなしに否定し、攻撃してくるような人を見ると。じゃあ、お前絶対葬式やんなよ?と思ってしまいます。ていうか、土日も休まず働けよと。いくら社会通念上仕方ないとはいえ、安息日という極めてメジャーな宗教行事に関わるようなひよった考えはいただけません。休むなら他の曜日を自分で決めましょう。

あと、今話題の「非現実青少年」とかいうアレ。宗教を絡めて考えてみると興味深い。それはまた別の機会に。



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