てすかとりぽか
その日のアレとかソレとか。
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『アリス・イン・ワンダーランド』 観客にモノを投げるな
アリス・イン・ワンダーランド

2010年公開のアメリカ映画。ティム・バートン監督。

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、『鏡の国のアリス』の実写映画版にして、3D映画としても大ヒットした作品。を家でDVDで観ました。ウチには3Dテレビなんてハイカラなもんはございやしませんし、それ以前にブルーレイ再生機すらありゃあしません。ていうか、3Dテレビなんて買う人いるんですかね。

ていうか、早く終われよ3Dブームとか。

さすがに言い過ぎました。ついついルサンチマンの片鱗を垣間見せてしまってお恥ずかしい。てか、自分のTwitterの方なんて単なる嫉妬と怨念の垂れ流しBOTみたいになってるので、良かったらそちらもご覧くだ…良くないですね。別に3D映画を嫌いとかdisるとかそういうつもりではないんですよ。

なんか最近、3Dにおんぶだっこした映画が増えてきてなんか厭なだけなんですよ。

本作は3D映画でもあるんですけど、当然それだけを目的とした作品ではなく、ティム・バートン監督らしいイカレた幻想世界を存分に楽しめる作品です。別に3D版じゃなくても、映画館出るときに「ジョニデさいこー!!」って言いながら出れるぐらいミーハー…エンタメ性に富んだ作品ですし。

でも、やっぱり“3D映画であること”を意図したカットが散見されているのは確かです。

例えば、“画面の手前から奥、またはその逆にを移動するだけのシーン”が異様に長回しで映されている点。ストーリー的には全く重要でないその単調なシーン(あの世界が広いってのはよくわかったけど。)が、幾度も登場します。これは、明らかに画面に奥行きがあることを効果的に魅せようとした作為の現れです。

あと、みんな無駄にモノを観客に向けて投げつけてくるしね。

カウントしたわけじゃないけど、少なくとも10数回は何かを投げつけられます。「そこで投げる意味あるの!?」って場所でバンバン投げてきます。これも、3Dでモノを投げつけられた観客が吃驚するだろうって作為を感じますが、3Dで観てない人にとってはよくわからないカットになってしまってます。

要するに、3Dで観なかった場合、単純に無駄なシーンが多い映画として見えてしまうんですね。

重ねて言いますが、自分は3D映画自体がキライなわけじゃないです。『アバター』を3Dで観て、正直物凄い時代になったもんだと感銘を受けましたし。特に、奥行きのある画面でミサイルや機銃の射線が奥から手前、手前から奥に流れていくのは、3D映画でしか体験できない戦場の臨場感を感じましたし。

ただ、3Dを映画撮影の“手段”でなく“目的”としている流れが厭なんですよね。

当然、『アバター』も『アリス・イン・ワンダーランド』も、3Dをあくまで“手段”としている映画だってのは理解してます。でも、それら作品の大ヒットを受けてか、どう見ても“流行りの3D映画を撮ることを目的に撮影をした作品”で“安易な内容の作品”が増えてきているように感じてしまうのですね。

例えば下記作品とか、予告編だけで3回もモノを観客に投げつけるシーンがあります。
(他のバージョンの予告編では、さらに別のモノも投げつけてきます。)

"映画 『バイオハザードIV アフターライフ』 予告編II"

個人的に『バイオハザード』はゲームも映画も好きだったのですが、たぶんこの作品は観ません。ゾンビ映画好きとしても、全く興味をそそられません。予告編を観る限り、「ほら!こんなに飛び出すよ!」ってことだけをウリにした、要するに“3Dであることを目的にした作品”の典型的な例に見えてしまうからです。

いや、別に『スパイキッズ』の3D版みたいな、最初から子供向けの3D作品ならいんですけど。

『バイオハザード』みたいに、それなりにシリーズを重ねて評価もされてるような作品が、いきなり“子供だましのびっくり映画”になってしまうのは悲しいです。え?元から子供だましのびっくり映画みたいなもんじゃなかったかって?そう言われるとぐぅの音も出ませんが、こういうのって他の作品でも言える話なんで…。

何より、今後家のテレビで観るときに、3D作品を敬遠してしまいがちになりそうです。

だって、3D映画として作られ3D放映された作品であれば、それを非3D環境で観ても100%楽しめるわけじゃないんだって無意識に感じちゃってるから。そこで、3Dじゃなくても十分楽しめる作品があったとしても、3D作品であることを理由にスルーしてしまう可能性があるのは、とても勿体ないことです。

それ以前に、今後出る3D作品がことごとく中身スッカラカンだったら元も子もないですけど。

いずれにしても、今後も3D映画が廃れることは当面ないでしょうし、その流行におんぶ抱っこした“観客にモノ投げつけてくるだけの糞映画”も増えていくことでしょう。ヤクザ映画でも、大理石の灰皿やらマンホールやらがぶんぶん観客に向けて投げつけられることでしょう。詰めた指すら観客に向けて飛んできますよ。

まとめますと、3D映画の古典的な見せ方はほどほどにして欲しいってことです。
特に、観客にモノ投げるのは飽きたからやめてください。

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『Twitter 自称実業家のフォロワーばかり急に増えて怖いんだが』 非実在実業家まとめ2
見つけたぞ 世界の歪みを!!

先日書いたエントリに関する進捗があったのでご報告をば。
“『Twitter 昨日から自称実業家のフォロワーが100人以上増えて怖いんだが』 非実在実業家まとめ”

ある日突然、自分のフォロワーがどっと増えて。1日でその数130人以上。その多くはプロフィールに自称「実業家」や「起業家」というもの。さらにその多くはひたすらに宣伝を繰り返す“中身のないBOT”であったり、数件しかツィートのない者。にも拘わらず、フォロー数もフォロワー数も数万件とか、何なんだこの集団は!?

実態のないフォロワー数を元手に、営業という名の詐欺・詐称を働く“非実在実業家”なのでは!?

おそらくは、何らかの“Twiiterでなんちゃって実業家を目指そう!”的なセミナーに参加した人たちで。自分みたいに「必ずフォロー返しをしている」人が一定数いることに目をつけ、「フォロー返しによるフォロワー増加を目的としたBOTによる無差別フォロー」というノウハウを“買わされた”人たちなんじゃないのでしょうか。

そんな妄想をしていたところ、見つけちゃいました。そのセミナー。

“ツイッターのフォロワーを90日以内に1万人以上!”
“500人だったフォロワーが、今では41592人に!”
“ツイッターのフォロワーを爆発的に増やす〇つのステップ!”

“〇ステップツイッターマーケティングシステム講習会”
“参加費用10,000円 (8月27日以降13,000円)”

あえて、URLは載せませんが、上記のようなマルチ…キャッチーな情報商材を扱っているセミナーです。

何でこのセミナーが、自分とこに来た非実在実業家に関係あるかわかったかって?だって、このページで成功体験談を語ってる連中、みんな自分とこフォローしてきてるからです。てか、自分とこのフォロワーが急に増え始めたのは、このセミナーを主催されてる自称精神科医の方にフォローされた瞬間からでしたから。

まぁ、実際このページ自体には、具体的に何をすればフォロワーが増えるのかは書いてないんですが。

何故無関係の自分のとこのフォロワーが急増したのか?ここから推理する限り、まずこの自称精神家医は「自分をフォローしている人間を片っ端からフォローしろ!」と言ったのに違いありません。何故なら、自分は彼に「フォロー返し」をしたからです。そもそも、自分はこの件があるまで「必ずフォロー返し」してましたから。

また、「彼のように胡散臭い人間にもフォロー返しする人=必ずフォロー返しする人」でもあります。

つまり、その自称精神家医のフォロワーリストは、「必ずフォロー返しをする人のリスト」になっているわけです。そこで、彼はセミナー参加者に対し、「自分をフォローしてる人間を片っ端からフォローしてみなさい。フォローした分だけフォロワーが増えますよ!」と言って、実際その通りにして見せたことでしょうね。

直接「フォロー返しする人リスト」を売ってるだけかもしれませんが。証拠はありません。

いずれにしても、自身はこの人がこんなくだらないノウハウを高い金で売るのは悪いと言うつもりはありません。これが売れるということは、これを買う馬鹿が大勢いるってことですから。正直うまい商売だと思います。買った奴は救いようのないほどのアレだと思うし、まぁ実際ツィート見ても腹がよじれるほどアレなんですけど。

まぁ、中にはほんとに自称実業家として、中身があるっぽい人もいるみたいですが。

実績が何もないだけに、「Twitterで〇万人フォロワーがいるんですー!!」とでも言えば、営業しやすいとでも思ったのでしょうか。中には騙されてくれる奇特な方もいるかもしれませんが、それは詐欺です。こんな方法で増やしたフォロワーが何万人いたところでそれは実績にはなりません。実績を偽って対価を得るのは犯罪です。

“注意!ツイッターのフォロワーが急増するチャンスはあと残り1年かもしれません・・”

と、件のページにも書いてあるんですけど、それって要するにこの手法が蔓延しきるまでの、Twitterのフォロワーの数が実績として通用する期間ってことですよね。そもそも、そのはるか以前にTwitterの情報が信頼性を失い、「フォロワーの数なんて逆に多い奴ほど胡散臭い」みたいに思われる日が来ることでしょう。

自分が許せないのはまさにその点です。この手法が、Twitterの情報の信頼性を地に落としてしまうこと。

第一、気安くフォロー返しもできない。フォロー返ししようにも、ほとんどが非実在実業家BOTか、ろくでもない営業ツィートしかしない自称実業家なんだから。彼らと、本当に中身のあるフォロワーさんを判別する時点でまず一苦労です。ツィート情報の信頼性云々のはるか以前に、フォロワーの中身の実在すら疑わしいのです。

そして、何より許せないのは、「無関係の他人を私利のためだけに利用しても構わない」というその姿勢。

金儲けなんてやりたい奴らだけで勝手にやってれば文句はないんです。ただ、このフォロワー増加手法に関しては、膨大な数の無関係な人間とその善意(フォロー返し)を利用するものです。そうして詐取した善意の数を「自らの実績として売り込みをかける」。そういうことを平気でやれる精神に虫唾がはしるのです。

ある意味、こういう商法が出てきた時点で、Twitterもある転換期を迎えたと言えます。

このまま、こういう商法が蔓延し、フォロー返しがめんどくさくなりTwitterを辞める人が増えたり。その数に比例してBOTアカウントの割合が増え、さらに辞める人が増えるというスパイラル。情報の信頼性もないから、フォロワーの数を増やしても仕方がないと、商用アカが消えた頃にはペンペン草も生えてない。

Twitterをそんな不毛地帯にしてしまうかどうかは、「今こういう連中にどう対処するか」だと思います。

ただ、自分にできるのはこうして日記上で注意を促す程度です。運営会社に訴えかける語学力もなければ、TL上に情報拡散を促せるような度胸もありません。ほんのただのいちオタクにすぎません。ただ、黙って非実在実業家の人たちがリムーブして行ってくれるのを待つことしかできません。全然黙ってはないけど。

『カラフル』 ネタバレなし
※※今回はネタバレなしです。でもTVCMが既にネタバレじゃねーか!とか言わない。※※

カラフル

2010年の日本のアニメ映画。原恵一監督作品。

一度死んだはずの僕は、天使?の導きで、小林真という中学生としてもう一度人生をやり直すチャンスを与えられる。しかし、その中で、前世の自分が犯した罪について気づくことが出来なければ、再びその命を失うこととなる。前世の僕の犯した罪とは?ネタバレされたくなければ、TVCMが流れた瞬間にチャンネルを変えろ!!

いや、ほんとまじで、TVCMが一番のネタバレなんで!!あんなこと言っちゃだめでしょ!?

でもまぁ、オチが凝ってるとかM・ナイト・シャマラン的な作品ではないですし。むしろ見どころは、美しい二子玉近辺の風景や、誰もが郷愁を覚える中学生時代のあれこれや、学校や家族も交えたリアルな人間模様だったりするので。それを見て優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりする、そういう作品だと思います。

そして、『カラフル』というタイトルに表されたそのテーマを、あらゆる意味で受け止める作品です。

「人には色々なカラーがある。キレイな色も、キタナイ色も。誰しもが色々なカラーを持っているのは当たり前。それが人間らしさなんだ。」と。真面目な少年だってエロ本を読むし性欲もあるし、模範的な母親だって不倫はする。可愛い女の子だって隠れて売春してる。でも、そんなカラフルな人間だっていいじゃない。

かつてのアニメ映画作品で、ここまで露骨に“人間の汚さ”を描いた物語はなかったと思います。

「キレーはキタナイ。キタナイはキレー。異形を拒む心こそマチガイなのだ!」そんな『外道節』を、アニメ映画という器を借り、美しい光景と中学時代の甘酸っぱい気持ちとともに爽やかに謳いあげる本作は、やはり既存のアニメ映画とは一線を画した作品であるなーと感じました。正直、単純に批評するのが難しい作品です。

しかも、この映画が本当に凄いのは「“人間の汚さ”を描いているのが物語部分だけではない」ということ。

そもそも、本作は「実写の映像や画像をそのまま使ったものは1カットもありません。全て人が描いてます。」という、気合いの入ったアニメの制作工程をウリにした作品です。アニメの背景に実写映像や写真を使ったり、手描き風に加工して使うことは最近多いのに。自分はその心意気に惹かれたのも本作視聴の動機です。

でもでも。あれっ?中盤以降から、突然背景が“明らかな実写映像”に…。

いや、もしかしたら「あまりに緻密に書き込み過ぎて、実写と区別がつかない程の絵になってしまった。」ってことなのかもしれませんが。そうじゃなかったら、これって詐欺なんじゃ?少なくとも、前述のような「実写の映像や画像は使っていない」というツィッターの宣伝アカウントの言質は嘘だってことなんじゃ?

でも、ふと気づいたんです。「これは意図して、“人間の汚さ”を見せているんじゃないのか。」と。

そもそも、「アニメ背景で実写を使うのは手抜きだ!」という、コアなアニメファンの固定観念に対するアンチテーゼなんじゃないのかと。「映画だってアニメだって、色んなカラーがあって普通なんじゃないか?キレーなやり方、キタナイやり方、手抜き、それら全てを認めさせてこそ、文化足りえるんじゃないのか?」と。

「ツイッターで嘘の宣伝をするのも、プロモーションの一つのカラーとしてありなんじゃないか?」と。

「だから、他のアニメ作品ならまだしも、本作において作画や背景の部分で手を抜いたとしても、作品テーマによってエクスキューズされるから大丈夫。むしろ、そこであれこれ言うやつは、作品のテーマを理解できてない情弱だから気にするな。宣伝が商業主義的と言われても気にするな。それも含めてのカラーだ。」と。

「何より、製作に世界の亀山モデルこと、亀山千広さんがついてるんだから、重商色上等!!」と。

脚本面でも、通常のアニメ作品にはないアバンギャルドなカラーが垣間見られます。一応、「主人公に初めての友達ができる」という物語の本筋に関わる部分ではありますが、その友人は勝手に独りで“東急玉川線語り”をはじめてしまい、物語は唐突に“鉄歓喜の鉄道紹介ロードムービー”になってしまうのです。

「最近鉄道流行ってるじゃない?そういうのも取り込みたいじゃない?そういうカラーもいいよね?」と。

これは凄い!メインストーリーだけでなく、本筋に無関係なストーリーを強調する脚本面、背景や作画などの描写面、宣伝・プロモーション面、あらゆる面から「いろんなカラーがあっていいじゃない?」というテーマを徹底的に見せつけてくる本作は凄いと言わざるを得ない!!これ、disってるんじゃないんですよ?いやまじで。

まさに、タイトルを地で往く“玉虫色の映画”なのです。

閑話休題。本作の主人公は基本的にいじめられっ子であり、本人もその状況に抗することなく、卑屈な中学生時代を過ごしています。作中では、そうした描写が非常に露骨に描かれていますが、少なくともこういうシーンは観る人によってだいぶ観方は変わってしまうんだなあと思ったので少々触れます。

少なくとも、自身の中学時代は、光の側と闇の側どちら側だったかと問われれば闇の側の住人でした。

だから、この主人公の孤独と無気力、外部とコミュニケーションの遮断、諦めと絶望、安住の地の確保など、様々な想いに共感できました。同時に、非常に強い劣等感にも苛まれました。自分の中学生時代は最低だった。友達と普通に挨拶したり、普通にふざけあったり、そうした普通の中学生時代が送れなかったのだと。

そんな中、隣に座っていた茶髪の男の口から信じられない音が。「プッ!」っと。

笑った?笑ったように聞こえたのだけど?間違いありません。主人公の携帯電話に誰のアドレスも登録されてないシーン、クラスメートに無視されるシーン、不良にボコられるシーン、その都度となりの茶髪男は「プッ!」と笑っているのです。自身が主人公と共感しストレスを感じてるシーンで、彼は笑っているのです。

「あー、中学ん時、こういうダサいやついたいた。超ダセーwwwww」といった感じで。

嗚呼、彼は光の側の人間なのですね。自身が“ストレスドラマ”を鑑賞しているその横で、全く同じ作品を“コメディドラマ”として観ている人間がいるのです。作り手がどちら側のリアクションを求めているのかはわかりませんが、観る側がどんな中学生時代を送ってかによって、作品のカラーすら変わって見えてしまうのですね。

観た人の人生経験によって映画の作品性が変わる。それもまた、カラフルでいいんじゃないんでしょうか。

それにしても、この主人公の真には、黙ってても話しかけてくれる美人な女子と、病気の時に部屋にお見舞いに来てくれるメガネ女子がいるんですね。少なくとも、自分にはそんな女子はいませんでした。それなのに、真と来たら、メガネ女子のことをブス扱いしやがって。あーいう女子は高校とかで化けるんだぞ!?

ていうか、真って十分リア充じゃないっすか?
だんだん腹たってきた。

まこと死ね!!

『リング』 クトゥルー神話
今週、テレビ東京の午後のロードショーで「夏だ!お盆だ!リング一挙放送!(うるおぼえ)」やってました。

リング

1998年の日本映画。中田秀夫監督。

リング2

1999年の日本映画。中田秀夫監督。

リング0 バースデイ

2000年の日本映画。鶴田法男監督。

なんだかんだいって、『リング』は個人的に“一番恐いホラー映画”の座を未だ譲りません。

劇場公開当時はあまり話題になっておらず、その時劇場で観てたのも自分ただ一人。「どうせ日本のホラー映画なんて…」って完全にナメ腐っていたところ、観終わった後はもう恐怖と絶望で茫然としてました。同時上映の『らせん』の内容は丸っきし覚えていないは、以後1週間はテレビのある部屋で寝れないなどの後遺症まで。

当時、一人暮らしのワンルームだったので、テレビのない部屋は無かったわけですけど。

そんな恐怖を是非友人たちにも共有させるべく、ビデオが出てからは一人暮らしの友人の家ばかりを夜中に訪ねては、部屋真っ暗にして鑑賞会を行ったものです。もちろん、ビデオ観終わったタイミングで、携帯からこっそりそいつの家の固定電話に電話したり、ちょうど7日後にも電話する“サプライズ”も忘れないようにして。

そんな『リング』ですが、ほんとに怖いのは一作目だけなんですね。

『リング2』では、いかにも怖がらせようとサウンドを「ズギュアァーァン!」と鳴らすシーンがあるんですが、肝心の映像があまりに前衛的すぎて「へ?」で終わってしまう。ストーリーもある種前衛的過ぎるし。『リング0』に至っては、おそらくホラーとして作ってないです。もう、なんていうか、怖いくらいに怖くないのです。

ただ、ホラーとしての怖さを求めずに、“クトゥルー神話もの”としてなら三作とも楽しめます。

てかまず、『リング』って“クトゥルー神話”なの?ってとこからですが、物語の構成要素から観れば、十分過ぎるほどそう呼ぶことができると思います。まぁ、厳密に言うのであれば、H・P・ラヴクラフト作品をモチーフにした設定が多いということで、それを以て“クトゥルー神話”と呼ぶかどうかは異論あるかもですけど。

小説版は大昔読んだけどよく覚えてないので、映画版でのネタを元にクト要素をいくつか挙げてみます。

まず、『リング』における貞子の母親である山村志津子に関する供述。「志津子はずっと海ばかり見ていた。」「わしら漁師にとって海は魔物。」「よく海と何かをしゃべっていた。人間の言葉ではなかった。」とか、貞子の母親による、ネガティブなイメージの海との交信が語られていますけども。

これは、『インスマスを覆う影』の“悪魔の暗礁”との交易をモチーフにしてると思います。

また、ビデオ音声の「しょーもんばかり…ぼうこんがくるぞ」(水遊びばかりしてると化け物が来るぞ)も、明らかに“水に関わる魔物”つまりは“ダゴンやその眷属”に対する畏怖を表した言葉です。とにかく、“水”や“海”をモチーフにしたホラーものはクトゥルー神話とこじつけ…親和性が高いですね。

貞子の出入り口がテレビなのとかも、異世界と通じる窓を描いた『破風の窓』なんかを彷彿とさせます。

『リング2』においては、さらに貞子出生の秘密において、「母親志津子は海辺の洞窟で貞子を生み、一度は海に棄ててきた。」「しかし、翌日また拾ってきた。」「その洞窟は、いらないものを置いておくと満潮時に全部海が持って行ってくれる。」などなど、殊更に海との関連性が語られています。

そこで中谷美紀が「貞子の父親って…」とぼそっと一言だけ言うシーンは、次作への伏線。

『リング0』においては、貞子の実の父親は伊熊博士ではなく、明確に“海から来た化物”と語られます。そして、貞子も実は双子で「一人は母親似だったが、もう一人は父親に似ていた。」という極めつけの台詞があります。言わずもがな「ウィルバーよりもさらに父親によく似ていた」でおなじみの『ダニッチの怪』。

さらに、その父親似の方を幽閉していた隠れ部屋のくだりは、『閉ざされた部屋』の描写そのもの。

他にも、貞子の死体と井戸があるコテージに端を発する変死・発狂事件なんてまるで『忌まれた家』。『リング2』の冒頭の死体安置所のシーンは『死体安置所にて』。同作に出てた深田恭子は“深きものども”とゴロが似てるし、もう挙げては枚挙に暇がありませんね。クトゥルー神話ものとしての証拠は十分と思います。

てゆか、貞子の設定と『崖の上のポニョ』のポニョの設定がそっくりだって今気づきました。

いずれも、“社会に適応できない片親(またはそうならざるを得ない力を持った片親)が、海神またはその眷属と結ばれ、そうして生まれた強力な力を持つ子供”という、あまりメジャーとは言えないキャラ設定面で共通しています。そもそも、“ポニョ=クトゥルー神話説”は以前書いた(感想文)通りです。

なるほど、他にも“能力を行使する時だけ、容姿が異次元の方向に似ちゃう”とかも共通してますね。

そして、人間の男の子と恋に落ちるところも。(貞子の場合、男の子って言うか田辺誠一。)その恋路と苦難を乗り越えていく中で、周囲にだいぶとばっちりがあるところまで。ああ、そうすると、そーすけはやっぱ最終的にポニョにとり殺されてしまうんですね。そして、ポニョは所ジョージに鉈で殴られて井戸に堕ちて怨霊化…。

「ポニョ、呪い殺すの好きーっ!! 呪いのビデオ撮るーっ!!」

『Twitter 昨日から自称実業家のフォロワーが100人以上増えて怖いんだが』 非実在実業家まとめ
らせん

2005年の日本映画。飯田譲治監督作品。

テレビ東京の午後のロードショーでやってるのを録画してみました。

『リング』と『らせん』は、鈴木光司の小説版ではシリーズものなんで、映画版もそれぞれ別の監督が撮影しながらも、同時上映だったんですね。でも、中田秀夫監督の『リング』の方の「恐さ」があまりにあんまり過ぎて、駄作扱いどころか、「完全になかったことに」されてしまったのがこの『らせん』。

『リング』の真の続編として撮られた『リング2』と『リング0』も今週テレ東でやってました。

そういえば、個人的に飯田譲治監督の名前を見た最後の作品な気がします。完全に、この作品で以降のジャパニーズホラー映画監督にとってかわられてしまったんですかね。てゆか、『らせん』ってこんな内容だったんだ。劇場で観たとき、『リング』の余韻ていうか恐怖が抜けなくて放心してたからなあ。

恐怖といえば、なんか自分のTwitterが昨日からおかしいんです。

昨夜から、突然フォローの波がどっときて。丸一日で増えたフォロワーが130件あまり。しかも、何やら「起業家」とか「実業家」というあやしげなプロフィールの人ばっかり。でも、言ってる内容が9割型うすっぺらいので、どうも「なんちゃって起業家」的なセミナーかなんかのフォローターゲットにされてしまった模様。

なんで、最初はフォロー返ししてたものの、あまりの勢いと増加速度に諦めモード。

まぁ、本当にこいつらがなんらかの集団であるという証拠はないし。中にはフツーにフォローしてくださった方も交じっておられるので、一緒くたにすることはできないのですけれども。でも、ほとんどの人はただただ無差別フォローを繰り返して、フォロー返しによるフォロワー増やしが目的みたい。

そこまでしてフォロワー増やしてどうするんですかね。営業に使うんでしょうか。

たしかに、起業家として何の実績もないよりかは、「私、フォロワーが〇万人いるんですよ。」とでも言った方が、営業もしやすいんでしょうけど。でも、それっていわゆる詐欺とか詐称の類ですよ。Twitterのフォロワーの数なんて、やり方次第でいくらでも増やせる実態のない数ですからね。

実際、そういうクソみたいなやり方で増やしたフォロワーだし。なるほど、非実在実業家ですね。

元々こういう社会の便所虫の糞みたいな非実在起業家・実業家が大っ嫌いな自分なので、日中散々こいつらに対する呪詛ツィートをまき散らしていたんですが、その間もどんどんフォロワーは増えていきました。実際はBOTか何かで無差別フォローしてるだけでTLなんか観ちゃいないんでしょうけど。

でも、中にはちゃんと自分でツィートしてる奴もいるんですね。全力疾走で前向きにお目出度い話とか。

気になるのは、こうした非実在実業家たちが、いったいどこでこの馬鹿みたいなノウハウを学んできたかですね。あと、いくら払ったんですかね。お前らが首吊って自殺する時の踏み台にもならないような教本と、糞尿をまき散らし絶命した後もずっと無差別フォローをしつづける無駄なBOTを買うのに。

昨日のことをよくよく思い起こすと、「あの人」にフォローされたのがはじまりかなーと気づいてます。

はじめにフォローしてきたその人は、「ツイッターによるマーケティングな感じのシステム」講習会への参加を呼び掛けていたんですね。おそらく、その中で「このリストに載ってる奴を片っ端からフォローしろ!」とでも言ってたんじゃないんでしょうか。なぜかといえば、「必ずフォローし返してくるから!」と。

そうです。自分は必ずフォローされたらフォロー返しをしてましたから。

必ずフォロー返しをする人なんて、ちょっとそこそこのデータをとるだけで、それなりの数が抽出できると思います。あとは、そのリストにあがった人たちをかたっぱしからフォローしていけば、どんなサルでも膨大な数のフォロワーをゲットできるわけですね。勿論、そのリストも高額なセミナー料金とは別に売るんでしょうけど。

まぁ、そういうことするのを悪いとは言わないですけど。ネタにはさせていただきます。
少なくとも、買わされた馬鹿のリストは自分の最新のフォロワーみていただければ一目瞭然ですから。

『コララインとボタンの魔女』 親必見
コララインとボタンの魔女

2009年のアメリカのアニメ映画。ヘンリー・セリック監督。

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のスタッフにより、ストップモーションアニメの手法で作られたアニメーション。3DCGによるアニメーション全盛の中、うっかりするとただの地味な3DCGアニメって扱いで終わっちゃいそうなんだけど。せめて、『ナイトメア』好きとしてはチェックしておきたかったのです。

いやでも、これ本当にホントに3DCGじゃないの?ウソだろ?ええー??

まぁ、創り方の話は置いといて簡単なあらすじ。少女コララインは友達もいない退屈な毎日を送っている少女。両親も多忙なため構ってもらえない。そんなある日、コララインは、壁に封印された小さなドアを見つける。ドアを開けて中に入ると、コララインが望んだ優しい両親がいる夢のような世界だった。

はい。この物語は、全世界の“親”に対して警鐘を鳴らす作品です。

一見、親のいうことを聞かないわがままな子供がなんか酷い目に遭うという、教訓的な物語かなーと思いきや。よくよく見てると、コララインは全然悪い子じゃあない。むしろ、露骨なまでに悪しざまに描かれているのは親の方。仕事ばかりしていてピリピリしてて構ってくれないどころか、料理すら満足に作ろうともしない。

でも、決して子供を愛していないというわけではない。愛しているからこそ、仕事もがんばっているのだ。

勿論、そんな親の心子知らず。子供はといえば言うこともきかないし、なんか変な妄想の世界で“もっといい両親に会った”だの言ってる。「そんなにヨソの家がいいならヨソの子になっちゃえばいいじゃないのよ!」と、つい口をついて出てしまう呪詛の言葉。もう、誰のためにこんなに仕事をがんばってると思ってんのよ!!

そう、この物語は“親”の方に感情移入できるようにできている。だって、我々と全く同じなのだから。

そして、そんな親の想いは、子供には決して伝わらない。「あの子もそのうちわかる」なんてのは、親子のディスコミュニケーションを認めず、正当化する詭弁でしかない。そんな中、子供は一人でもっと楽しい世界、でも危険も紙一重な別の世界に飛び込んで行ってしまう。そして、悪の手に堕ちてしまうのだ。

それは子供が悪いのか?否、子供視点で描かれる本作において、少女の行動は極めて必然的なもの。

コミュニケーションをとろうとしない、料理も満足に作ってくれない親より。目がボタンでできているけど、全力で私をかまってくれて、料理も滅茶苦茶うまい親の方が、素敵な親だと思って何が悪いものか。最終的に、そのボタンの親から、元の両親を棄てる選択を迫られるけれども、そんな屑親なんか棄てて何が悪いのか?

そこで、躊躇したコララインは本当に出来た子供。自分だったら躊躇せず親を棄ててる。

そんなの、子供が親を棄てないのは当たり前だ!なんて思ってる親は、きっと子供に棄てられる親。これは、「子供に棄てられるかもしれない」と恐怖し、自分自身を見つめなおす“親”のための物語。「独りよがりな親の愛情なんてものは何の役にも立たないんだ!」というメッセージを全力で投げつけてくる作品だ。

親の愛情なんて思ってるだけじゃ無駄。全力で、態度と行動で示し、子供にぶつけないと伝わらない。

そして、愛情が伝わらない子供は、勝手に外の世界に愛情を求めてゆく。この物語の魔女は、世間の闇そのものだ。無邪気な子供心を取り込み、魂を奪ってしまう。そんな世間から子供を守るのは、学校の役目でもテレビの役目でもない。親の役目なのだ。ソレを履き違えている馬鹿親が多すぎる。目を覚ませと。そういうこと。

てか、『ナイトメア』を子供の頃に観て育った、今の親世代をピンポイントで狙ってますよね。

勿論、本作は子供が観ても楽しめます。子供は子供でコララインに感情移入して。「あー、うちの親とおんなじだよ。仕事ばっかとか。俺もこんな親棄てて目をボタンにしてえー。」とか思いながら。んでも、魔女に目玉をとられた子供の幽霊のシーンで軽くトラウマを抱えるとよい。あのシーン異様にこええー。

もう、これで、いつでもボタンと針を持って来れば言うことを聞く素直なお子様のできあがりですぜ。

『ニンジャ・アサシン』 ここはコリドー
ニンジャ・アサシン

2009年のアメリカ映画。ジェイムズ・マクティーグ監督作品。

タイトルを見るだけでわかる、文字通り“馬鹿映画”です。

よくわかるあらすじ。孤児だった雷蔵(ピ)は子どもの頃から、小角(ショー・コスギ)一族に育てられ、暗殺者(アサシン)に仕立て上げられた。だが、色々あって雷蔵は一族を抜け、同門であった忍者達と対決する。あと、ニンジャの起源は韓国だから。日本の忍者は韓国のパクリだから。わかったか。というお話。

起源を主張するのはいいんだけど、やるならもっと頭良さそうな映画でやったほうがいいと思います。

まぁ、自分もイデオロギーで映画の評価を変えるのは好きじゃないので、そのへんの野暮なつっこみはなしの方向でいきたいと思います。主人公をやってるのが韓国の歌手の人なので、わざわざ劇中で「歌手みたいな顔しやがって!」って補足があるんですが、そういうのもスルーの方向でいきたいと思います。

ニンジャの歴史を説明するのにわざわざ韓国の明成皇后が殺害された事例を上げたりとか全然スルー。

他にも、大阪のヤクザが観てるテレビ番組が韓国ドラマだったり、その大阪のヤクザがしゃべってる(吹替版)関西弁がインチキ関西弁だったり、非常に細かい部分で偏執的なまでの“ニンジャ韓国起源”への配慮がなされており、たぶんどっかの台詞を縦読みすると“独島は韓国領”とか隠されてんじゃねーのってレベル。

まぁ、そんなこと“役小角の末裔がニンジャ”っていうトンデモ設定に比べたらなんでもないです。

役小角(えんのおづぬ)は『宇宙皇子』に出てくるおづぬ様であり、『女神転生』に出てくるオヅヌですけど。修験道の開祖で、あと江の島の変な神社を作った人ですが、さすがにニンジャでもアサシンでもないです。そもそも、ニンジャ=暗殺者=アサシンって考えって『ウィザードリィ』あたりから出たんでしょうか。

てゆか、ニンジャの常食って“素うどん”なんですかね?

主人公が素うどんを食べながら、自身のニンジャスクールに通っていた少年時代を想い出すシーンがあるんですが。そこの給食もまた素うどんなんですよね。まぁ、たしかに粗食には変わりないけれどさ…。まだ、雑炊とか芋とか食ってる分、『忍たま乱太郎』の方がリアリティのあるニンジャスクールだってばよ。

でも、そんなニンジャスクールで育った現代のニンジャたちが強いこと強いこと。

ショー・コスギ一族こと小角一族の皆さんは、ハンドガンやサブマシンガン程度の近代兵器に対して、刀と手裏剣だけでものともしません。しかし、終盤ちょっと本気を出した警察が、重機関銃や迫撃砲などのワンランク上の近代兵器を持ち込んで来たところ、あっさり壊滅してしまいましたが。そりゃ、そうでしょうけど。うーん。

とか、まぁつっこみどころは満載ですが、ふつーにアクション映画として面白いです。

特に、ニンジャ的な殺陣のシーンは圧巻。そもそもハリウッド製のワイヤーアクション&VFXを駆使したアクションって『チャーリーズエンジェル』の頃から一ミリも進歩してないような気がしてたんですけど、本作のソレは本当に凄い。まるで、ゲームみたい。そう、最近流行りの『ゴッド・オブ・ウォー』のテンプレゲーみたい。

いや、まじで『ゴッド・オブ・ウォー』のテンプレのガワだけ変えたゲーム大杉ですって。

そういうゲームの見た目が映画に影響を与える時代になってきたわけですね。先日観た『インセプション』なんかも、いろんなゲームからのパク…オマージュが見つかって話題になってますしね。「ゲームが映画を目指す」と言ってた時代から、「映画がゲームを参考にする」という時代になってきたのは素直に嬉しいですね。

そんなわけで、土曜日はNHKFMの「今日は一日ゲーム音楽三昧」を聞いてました。

11時間ぶっつづけで。Twitterでさわぎながら。フォロワーの皆様にはご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。とりあえず、自分がリクエストした(名前は呼ばれてませんが)『ボンバーキングのテーマ(ボーカルつき)』がかかったので満足です。あと、ロマサガの「七英雄」と「四魔貴族」もかかったし感無量。



イントロのかっこよさと、「そは なにものぞ」って古文っぽいとこが昔から大好きです。

『マイマイ新子と千年の魔法』 超おっさん向けアニメ
※※微妙にストーリー部分のネタバレを含みますので未鑑賞の場合はご注意を。※※

マイマイ新子と千年の魔法

高樹のぶ子の自伝的小説『マイマイ新子』を原作とするアニメーション映画。
片渕須直監督作品。文部科学省特選。

“地味すぎるアニメ映画が小さな町の映画館を満杯にした!”とか“50歳すぎのおっさんたちが観て泣いてる!”という、極めてセンセーショナルな話題性に釣られてみてしまいました。そういう煽りに比べたら、文科省特選なんて肩書きはなくてもいいぐらいです。そもそも、どういう意味で特選なのかは終にわからずじまい。

だって、どう考えても子供向けの映画ではないぜすぜコレ!!

ただ、『クレヨンしんちゃん』や最近のピクサー作品群のように、“子供向けだと思わせておいて、その実大人が観ても楽しめる”といった売り方はしてないし。そもそも、全国上映でない時点で、はなっから子供向けに売る気はなかったんでしょうね。そういう意味では、『ALWAYS 三丁目の夕日』のようなノスタル系なのかも。

そういう意味で、尚更文科省特選の意味はわからないのですが。まぁ、一応歴史モノだしってことで。

「昔はよかった。」とか「田舎はよかった。」とか、そういうノスタルジックな想いを全開にした作品。それにしては、『火垂るの墓』ほど戦時中で苦しい時代でもなく、『となりのトトロ』ほどユートピアでもない、微妙なラインの昭和30年代の農村を描いています。ジブリ的だけどジブリではない、そんな感じがしました。

自分は田舎育ちなんで、手放しで“田舎は良い”って描き方をする作品は、正直好きじゃないのです。

だって、スーパーはおろかコンビニに行くのだって車が必要な世界ですよ。ジャンプが読みたくても、自転車で数キロ先まで買いにいかないといけないし。行ったところで売り切れてるかもしれない。病気になっても医者がいない。そういうデメリットを差し置いて、空気がキレイだの水がキレイだのだけで田舎を賞賛すんなって。

それにつけても本作の描写は素晴らしい。まず、夕方出かけるのに懐中電灯を持って出てる。

夕方とはいえ、まだ日も沈みきっていない時間に懐中電灯はいらないでしょ?と思う人も多いでしょうけど。電燈の存在しない世界の夕方は、真夜中よりも暗いんですよ。まだ、夜中月明かりだけに照らされた世界の方が、周囲を視認しやすいのです。そうした、田舎暮らし特有のデメリットをしっかり描いてるんですね。

そして、決して少女たちが幻想世界に逃げ込む隙も与えず畳み掛ける、大人社会の非情な現実。

『赤毛のアン』よろしく空想の世界に入り浸っている少女たちは、飼ってた金魚を殺してしまう。しかし、そんなものは鬱ルートに入る前のほんのジャブに過ぎません。金魚に名前をもらった憧れの女性教師が実は不倫女だったと知ったり、親友の父親が悪い女にひっかかって借金苦に首吊り自殺をしたりと、怒涛のデンプシーロール。

空想少女物語から唐突なホラー展開。P・ジャクソン監督『乙女の祈り』ですかっ!?

そんな流れで、父親を死に至らしめた“金髪女”を殴り殺すべく、木刀片手に赤線地帯に乗り込むたつよしと主人公新子。この作品が、ただの痛快アクション劇だったとしたら、この後苦戦しながらも、無事親の仇をぶんなぐってめでたしめでたしといったところだったでしょう。自分もそういう展開を予想してました。

しかしながら、物語は予想だにしない展開に。これには鳥肌がたちました。

正直、田舎の描写の辛辣さには目を見張ったものの、やはり何でこんな地味なアニメが評価を得てるんだろう?とはずっと疑問には感じてたんですね。ただ、バー・カリフォルニアでの1シーン。それだけで、自分は本作を高く評価します。まさしく、原作者の実体験だから書ける話。創作では紡げない物語をここに感じました。

逆に、なんでこの映画をアニメにしたんだろう?という想いも。絶対に子供向けじゃあないのに。

新子の創造する1000年前の世界と、貴伊子が迷い込む幻想世界を描くには、アニメの方が都合が好かったというのが正解なんでしょうけど。結果として、現実的な大人の世界の柵もアニメで描かれることによって、より斬新さを増して、観客の心を打った。と、いう前向きな考えもできるかもしれませんね。

もしかすると、実写で撮っていたとしたら、単に地味で日のあたらない凡作になっていたのかもね。

夢見がちな少女たちが大人社会の現実にぶつかり、その世界を暴力によって否定した『乙女の祈り』。同じ境遇にあり、一度は暴力による否定へと走りながら、結果的に世界を受け入れて強く生きようとする本作。2つの作品の非凡さを考えると、他の空想少年少女作品が単なる“現実逃避”に根差したチンケな物語に見えます。

まぁ、実際に現実から逃げたい人も多いわけですから、そういう作品に需要があるのは仕方ないですけど。

だからこそ、たつよしの言った「俺はベーゴマの回し方を子供に教えられるような立派な大人になりたい。」的な言葉に重みを感じるのですね。現実を生きるということは、単に肉体的に成長することでも、また社会生活を送るということでもないわけで。大人としての社会的責任を全うするということにあるわけですから。

そんな言葉を、あんな小学生に言わせるとか。子供向けどころか、超おっさん向けアニメ映画ですよッ!!

あ、でもあのシーンで「俺は必ずお前を迎えにくる!」とか「結婚しよう!」とか、たつよしが言い出さないかヒヤヒヤしてました。もし言ったら、一瞬で掌を返して「こんくそリア充映画めがっ!!」と憤り、泣き、少し笑って、そしてまた泣いていたことでしょう。先日録画した『耳をすませば』はまだ観てません。



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